2013年
6月
29日
土
ショーン・ペイト Sean
Pate
マッスル・アンド・フィットネス日本版』2000年8月号より転載 |
2013年
4月
29日
月
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パトリシア・メネガス・バークハート Patricia Menegaz Burkhart
1989年の感謝祭の日、私は実際に、「感謝すべきこと」がいくつかありました。この年の5月にテキサス大学薬学部を優等で卒業できたし、念願だった病院の薬剤師としての仕事に就くことができたのです。それに、間近に迫ったヒューストン・テネコ・マラソン出場に向けてのトレーニングも続けていました。 でも、ここで私は、パーソナル・トレーナーであり、ボディビルダーでもあるグレッグ・デイビスに指導を求め、ボディビルを始めたのです。食事は魚、鶏肉、複合炭水化物、野菜中心に変え、ファースト・フードに縁を切りました。グレッグが私のために考案したウエイト・トレーニングのプログラムには、体脂肪をつけないように、軽いエアロビック・トレーニングも含まれていました。週4回、血糖値を注意深くチェックしながら、ステア・クライマーやステーショナリー・バイクのエクササイズを20〜25分行うというものです。こうして4年間トレーニングを続けていくうちに、筋肉が驚くほどについてきて、低血糖に悩まされることもなくなりました。 そして1995年4月、私は初めてボディビル・コンテストに出場しました。テキサス州フォートワースで開かれた大会です。まったくの素人であった私はプレジャッジの直前までダイエット・ソーダ(低カロリーの炭酸飲料)を飲んでいました。タンニング・クリームも上手に使えず、全身をテカテカに光らせてしまいました。それでも4位に入賞し、この失敗はよい勉強となりました。 この入賞経験ですっかりその気になった私は、それからもコンテスト出場を続け、4つのコンテストで優勝しました。1995年NANBFナチュラル・アメリカ・ウエスト、1995年ローン・スター・クラシック、1995年ジョン・シャーマン、そして一番最近が1997年4月のオレンジ郡クラシックでの優勝です。オレンジ郡クラシックでは、女子オープン・クラスのミドル級で優勝しました。 最初のコンテスト出場以来、私が成績を向上させていくことができたのは、ハル・ルイスのおかげでした。体重200ポンド(90.7kg)、元大学野球選手の彼が、ステージでの歩き方やポージングを指導してくれたのです。初出場のときの私のポージングは彼いわく、「見るにたえないものだった」のです。ハルは女性のボディビルダーを専門に指導していて、たくさんの選手を優勝させています。コンテストに備えて体のカットをつくり上げ、しかも糖尿病の症状もコントロールできるダイエット・プログラムを考案するのは簡単なことではありません。ハルはこれを実行してくれたのです。 正直にいうと、こうしたトレーニングとダイエットのプログラムを実践していくのは決してたやすいことではありませんでした。私はオフシーズンには1日2時間半、週に4回のトレーニングをジムで行っていますが、これがコンテスト前の準備期間になると週に6回となります。タンニングやポージングの練習、ダイエット・プログラムのための食品の買い出しや調理にかかる時間はこれには含まれていません。 コンテストに備えてダイエットを行っているときのボディビルダーは、決してつき合いやすい人間とはいえません。私は厳しい自己管理を徹底して行い、そのために4年間の結婚生活を犠牲にすることになりました。夫は私がトレーニングに時間を費やすことに理解を示さず、結局、私たちは別れることになったのです。 私にとっては、これは大きな痛手となりましたが、逆に内面的な成長を与えられる機会ともなりました。今ではトレーニングは私の一部であり、これによって私は、自分の健康状態を自分で管理しているという実感が味わえるのです。これこそ、私がボディビルというスポーツに夢中になった一番の理由です。 精神力で克服する 私は病院で薬剤師として働いていますが、患者や地域の人々と接するときに、ハードなトレーニングやダイエット、コンテスト出場などで得た知識を役立てています。2年前に、パーソナル・トレーナーの資格も取りました。病院での仕事を終えたあと、ヒューストンの2つのジムでトレーナーとして楽しく仕事をしています。 私はウエイト・トレーニングを始めたおかげで健康な体を取り戻すことができました。でも、トレーニングをとおして私が得た最も大切なことは、自尊心が高められたということです。何年もの間、私はジムの壁にはられたグレッグ・デイビスやその他の素晴らしい体をしたボディビルダーたちの写真を眺めてきました。そして、自分は絶対にそんな体にはなれないと思っていました。でも現在では、私の写真がこうした人たちの写真といっしょにジムの壁に貼ってあるのです。まさにこの写真が、目標を立て、それを現実のものにしたという証拠なのです。 心のもち方しだいで現実を変えていけると、私は固く信じています。ボディビルによって、私は否定的な考えから、プラスの考え方をする人間に変わりました。私のこの経験が、他の人にも、目標を決めて、それに向かって進み出すきっかけになることを願っています。 今ではトレーニングは私の一部であり、これによって糖尿病を自分でコントロールしているという実感が味わえるのです。これこそ、私がボディビルというスポーツに夢中になった一番の理由です。
2013 xfit—体づくり、フィットネスのためのトレーニング・栄養情報より転載 |
2012年
10月
31日
水
永遠のスーパースター、ブルース・リー |
死後34年を経て、なおも世界中の人々を魅了する“伝説のヒーロー”は、ウェイトトレーニングに打ち込み、格闘術、アクション映画に“革命”をもたらした! 伝説的存在”という言葉は、最近はあまりにも軽々しく使われているかもしれない。本来は、人々に絶大な影響を与えた人物だけに使われていた言葉が、商業主義的なマスメディアの使用によって価値が薄められ、重みが失われてきているかもしれない。 しかし、この半世紀を振り返ったとき、ブルース・リー(1940〜73)ほど、この“伝説的存在”という言葉がふさわしい人物はいないことがわかるはずだ。電光石火のスピードと、自ら考案した格闘スタイルである“ジークンドー”を武器に、リーはほぼ独力で、“格闘系映画”のスタイルを塗り替え、武術を世界に知らしめ、世界中の映画ファンを魅了したのだ。 それは、まだ人々のフィットネスへの関心は低く、アーノルド・シュワルツェネッガーも注目される以前であり、フィットネスクラブで汗を流す人など珍しかった時代のことなのだ。そんな時代に、リーはその格闘技術と体に磨きをかけ、世界で初めて、真のアクションスターになったのだ。 細いが筋肉質で、見事なストリーションが全身に走る身長170cm、体重135ポンド(61.2kg)のリーの体は、後の世代に残した遺産として、もっと高い評価を受けてもいいだろう。筋力、スピード、そしてパワーの向上に少しの妥協もなく取り組んだ結果、リーは筋肉の潜在能力を強く意識するようになり、その限界を超えようと苦心を重ねた。 リーは、時代のはるか先を行った、驚異的な体の持ち主だった。怒りに満ちた表情でパワーを全開させると、その体はスクリーンに生き生きと映し出された。敵を倒すたびに躍動する筋肉は、猫のような雄叫びによっていっそう迫力を増した。リーの死後、ボディビル界にも多くの驚異的な体の持ち主が現れた。だが、リーの筋肉、バランスのとれた骨格は、体を評価する判定基準の一つとなった。現在活躍するボディビルダーでさえ、リーの体を“コンディショニングの理想”と考えているくらいなのだ。 リーの最も素晴らしい点は、若すぎるその死から35年近くが経過しているのに、“伝説的存在”としての名声がまったく衰えず、むしろ評価が上がっていることだろう。世界で最も有名で、最も尊敬されている武術家がリーであることは疑いの余地がない。いわば、“武術界のアーノルド・シュワルツェネッガー”なのだ。驚くべきことに、リーは彼が武術で説く教えを、ウェイトトレーニングで実践するだけで、あの凄まじい体をつくり上げたのだ。その教えとは、「効果のあるものだけを使え。そして、場所を問わずそれを探せ」というものだった。 リーがどのようにして“ドラゴン”の体をつくり上げていったのか、その経緯を見ていこう。 アクション映画スターの肉体 今でこそ、アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローン、ジャン・クロード・ヴァン・ダム、ドゥエイン・“ザ・ロック”・ジョンソンなど、アクション映画のスターがスクリーンでその肉体を披露することは珍しくない。だが以前は違った。ジョン・ウェインやバート・ランカスターが活躍した1950年代には、“悪漢を一撃でKO”というシーンが常識であり、アクション映画で俳優が裸になる光景はほとんど見られなかったのだ。大柄だが、のっぺりとした体。胸筋よりも、演技力が重視されていたのだ。 そこに現れたのが、“ドラゴン”、ブルース・リーだった。 1964年、当時ほぼ無名のリーは、カリフォルニア州オークランドで開かれた“ルールのない”非公式の格闘試合で、中国人の武術家、ウォン・ジャックマンを倒した。このとき、リーはすでに詠春拳(カンフーの流派の一つ)で黒帯を取得していた。そかしその試合後、リーは勝利を手にしたにもかかわらず、まるで敗北者のような表情で座っていた。自分のパフォーマンスに失望していただけでなく(相手をもっとずっと早く倒すべきだったと思い、詠春拳の限界も感じていた)、自分の筋力やコンディショニングのレベルの低さを痛感したのだ。対戦相手は、リーのパンチやキックによるダメージをそれほど受けていなかった。また、リーは息も上がっていたし、脚は重かった……。この悔しさをバネに、リーは新たなスタイルの武術家へと、変身を遂げていくことになるのだ。 「あの試合のあと、ブルースは筋力と持久力の強化にいっそう熱心に取り組み、彼独自の武術をつくり上げていったの。それが“ジークンドー”よ」とリーの妻、リンダ・リー・キャドウェルは話す。 ジークンドーは、そのスタイルを見ると、現在の総合格闘技の原型といっていいだろう。本当の戦いになったら、詠春拳などのカンフーや、そのほかの格闘技に見られる固定した動きでは対応できないことに、リーは気づいていた。一つの武術に固執することには限界があると感じたリーは、ジークンドーを“スタイルを持たない格闘スタイル”と呼ぶようになる。 「戦いのルーツに立ち返れば、“格闘スタイル”などというものは存在しないことがわかる」と、リーは自らの武術をそう呼んだ理由を説明していた。 リーが稽古に励んだ多くの格闘技術同様、ウェイトトレーニングも、 当時の“伝統武術家たち”の思想とは方向性が180度異なるものだった。伝統的な武術家たちは、体力ではなく、テクニックの重要性をもっぱら説いていた。 「一昔前は、ウェイトトレーニングをするとスピードが落ちるという考え方が主流だった」と、リーの弟子であり、ジークンドーの伝統を継承するダン・イノサントは話す。 「武術界では神秘的な面ばかりが強調されていた。私がブルースから教わったのは、“古いスタイルと新しいスタイルを織り交ぜ、自分独自のスタイルを創り出さなければならない”ということだった」 また、米陸軍で格闘術プログラムのディレクターを務めるマット・ラーセンは次のように話している。 「従来の武術体系そのものを変えることに着手したのが、ブルース・リーだった。リー以前の伝統武術家たちは、従来のトレーニングスタイルを変えようとしなかった。筋力やコンディショニングの向上には無関心に近かった。武術のパフォーマンス向上のために誰もが体を鍛えるようになったのは、それから30年も40年も経ってからのことだ」 リーには、筋力トレーニングの経験はそれまでもあった。だが、体を完成させようと新たに決意したことにより、リーは映画界でのスーパースターへの道を切り開いていったのだ。数々の格闘映画に出演したが、リーの成功の原動力となったのは、ハードワークによって得た筋肉だった。そして、リーがつくり上げた“筋肉”の影響で、アクションスターの体にも革命が起きたのだ。 ファイターの体をつくるルーティン ブルース・リーはウェイトトレーニングの一般的なエクササイズを積極的に取り入れ、あの驚異的な体を完成させた。以下は、リーが精密な“ファイティングマシーン”へと変身するために利用したルーティンの一例だ。 全身の筋力を強化するルーティン リーはボディビルタイプのこのルーティンを実践し、体を劇的に改造した。リーのようなパワーをつけるために、週3回、このルーティンを試してみよう(ワークアウト間には1日以上の休養をとる)。
エリック・ベラスケス Eric Velazquez (▶ブルース・リーのウェイトトレーニングや栄養摂取について、もっと詳しい内容・写真は『マッスル・アンド・フィットネス』2008年5月号に掲載されています。) |
2012年
10月
24日
水
癌に打ち勝ち、トレーニングの喜びをかみしめる |
アンドリュー・カーシュナー Andrew Kirschner 家族も私もショックだった。34歳の頑強な体をした、“トレーニング中毒”というくらいのスポーツマンで、それまで1本のタバコも吸ったことがなかった。それだけに、病気を宣告されてから数日というものは、「なぜ、私がそんな病気になるんだ?」という思いが頭を離れなかった。 私はすぐに化学療法を受けることになった。はじめの4カ月は、食事も固形物は食べられず、185ポンド(83.9kg)あった体重も140ポンド(63.5kg)まで落ちた。頭髪はすべて抜け落ち、体力もなくなり、疲労感につきまとわれた。朝、シャワーを浴びるのも大仕事で、そのあとにはしっかり睡眠をとらなければならないという状態だった。 だが、精神的には、妻と生まれたばかりの可愛い娘をはじめ、家族、友人たちの愛と励ましに支えられて、落ちこまずにいることができた。肉体的には、何とか疲労感をおして、両腕を頭の上に持ち上げて運動したり、両手にウエイトを持っていると想像して、いろいろなエクササイズを頭のなかでやってみたりした。あるとき、「こんな病気で絶対に命をおとしたりはしないぞ」という思いが、一瞬のきらめきのように、しかし非常にはっきりと頭をよぎったことを覚えている。若いし、体力もあるから、この試練を必ず克服して、元気になるという確信があった。 1996年5月になる頃には、腫瘍もずっと小さくなって、化学療法も局部的に行うようになった。したがって、副作用も激減し、体力もゆっくりではあったが、回復し始めた。そうなると、トレーニングを再開することが待ちきれなくなった。妻と2人で自宅の地下室を改装してトレーニングができるようにし、トレーニング用のベンチとフリー・ウエイトを備え、かつて上げていたウエイトで再びベンチ・プレスをすることを夢見ていた。 この年の11月、数カ月間にもわたる心の準備を経たあと、ついに私は、実際にトレーニングができるまでに体力が回復したのだ。まだバーを胸から持ち上げることはできなかったが、それでも嬉しくてたまらなかった。またトレーニングに復帰できたのだ! 再開したトレーニングは、はじめはなかなか進歩しなかった。ウエイトの代わりの小さな板と軽いダンベルを使って一連のエクササイズを行い、萎縮してしまった筋肉をトレーニングした。最初の頃のルーティンは、非常に軽いウエイトでベンチ・プレス、レッグ・プレス、ミリタリー・プレスを1〜2セット行うというものだった。そのあと、ダンベル・ロウ、プルオーバー、カール、トライセップスのエクササイズ、スクワットなども加え、エクササイズの種類を増やしていった。そして、ラット・プルダウンのマシンとサンドバッグも買って、トレーニングに幅をもたせられるようにした。 毎回、トレーニングを行うたびにウエイト、エクササイズ、セット数、レップを増やしていった。体力も持久力も、着々とついてきた。さらに私は、ジョギングまで始めることができた。そして去年の5月には、夢にまで見た自分本来のウエイト、健康だった頃に上げていた200ポンド(90.7kg)の重量でベンチ・プレスするという目標をついに達成したのだ! 生きる喜び 娘は今、19カ月になり、私自身は元気そのものだ。1996年12月を最後に、治療も必要としていない。ほぼ全快に近い健康状態だ。ウエイト・トレーニングとジョギングを続けている。食事には特に注意し、そしていつも前向きの姿勢でいることを心がけている。私は、トレーニングをとおして、体力と精神力が強くなっていったことと、腫瘍がなくなったことの間には直接的な関係があると思っている。私の免疫システムが強力に働き出し、この病気と闘ってくれたのだ。 命を取りとめ、病気をのり越えた今度の経験から、私は多くのことを学んだが、その一つが、日常の生活のどんなことも、それを当たり前と思って生きてはならないということだった。健康で体力があり、トレーニングができ、家族や友人たちと一緒にすごせることに、私は今ゾクゾクするほどの喜びを感じながら毎日を生きている。 体力と精神力が強くなったことと、腫瘍がなくなったことの間には、直接的な関係があると、私は思っている。 私の免疫システムが強力に働き出し、この病気と闘ってくれたのだ。 |
© 2012 xfit—体づくり、フィットネスのためのトレーニング・栄養情報より
転載させていただいております。
2012年
10月
03日
水
人生を充実させたもう一つのチャレンジ |
自分に挑み、コンテストで勝ち取った“心の勝利” イアン・ディアック Ian Diack 私が体づくりのトレーニングを始めたのは1991年、14歳のときだった。どこにでもいるような、ごく普通のやせた子どもで、体を大きくしたいと思ったのだ。ウエイト・トレーニングは、“大男たち”のような大きな筋肉を手に入れるための“切符”となった。ウエイト・トレーニングによって、充実感も味わうことができた。トレーニングは私にとって、「特別なもの」となったのだ。 父も私の努力を応援し、かつて自分が使っていたウイダーのバーベル・セットを譲ってくれ、さらに空箱2つと板を材料に、ベンチを作るのも手伝ってくれた。たったこれだけの基本的な器具と、『Muscle & Fitness』誌で知ったテクニックを使って、私は全身を鍛える方法を学んでいった。 中学の体育の授業でウエイト・トレーニングが始まったとき、私の熱意に気づいた体育の教師は、他のスポーツではなく、ウエイト・トレーニングに専念することを許可してくれた。こうして私は着々と進歩を遂げていった。両親、友人、教師たちから励まされ、さらに前進を続け、やせた体にはしっかりと筋肉がついていった。 そうするうちに、私はよく、自分の体の変化について質問されるようになった。たくましい体をした“ビッグ・ガイ”として知られるようになっていったのだ。自尊心と自信も、体の成長に負けないスピードで急速に強まっていき、ウエイト・トレーニングを通した体づくりはこの先もずっと続けていくだろうと考えていた。 目標をめざして計画を立てる 私はウエイト・トレーニングが役立つスポーツを始めるようになった。ボクシングやフットボール、パワーリフティングの他、スコティッシュ・ハイランド・ゲームズ(力技を競う「ストロングマン競技」の一種)にも挑戦した。だが、私が本当にやってみたかったのは、未経験の「ボディビル」でコンテストに出場することだった。目標を立て、それを達成するという充実感、それまでで最高のシェイプをつくり上げてステージに立ち、競い合う喜びをどうしても味わってみたかったのだ。 そんなある日、鏡の前に立った私は、自分が長い間かかって築き上げてきた体を見つめた。確かに、体は大きい。だが、カットがなく、“ボリューム”があるだけだ。ボディビルダーというより、パワーリフターの体型に近かった。力はあるが、脂肪も多く、引き締まった体ではなかったのだ。このとき、今こそ自分の真価を試すときだと思った。 そこで、1999年カナディアン・ワールド・ボディビルディング・コンテスト予選への出場を決意した。カナダではトップ・レベルのナチュラルビルダーが集まるアマチュア・コンテストだ。しっかりした計画がなければ、いくら目標を立てても、夢物語に終わることはよくわかっていた。忍耐と、目標とする結果を具体的にイメージすることが必要だった。そして私は自分自身にチャレンジを課し、自分の限界を試し、徹底的に努力する決意をした。 コンテスト出場のために私が立てた計画は、ボディビルとフィットネスの2人の優秀なトレーナーから指導を受けることだった。ブライアン・ローグとその妻、IFBBプロ・ボディビルダーのダナ・ローグだ。豊富な知識と経験をもつこの夫婦のおかげで、私は食事とポージングでみるみる進歩を遂げていった。だが、いくら指導がよくても、最終的に成果が得られるかどうかは私にかかっている。私は自分に対して、体を変え、健康的なライフスタイルを実践することによって得られるたくさんの効用について常にいい聞かせた。そのおかげで、私は食事で一度もチーティングをすることはなく、18週間も経つ頃には、初出場のコンテストに備えて本格的な“バトル”に臨む準備がしっかりと整っていた。 素晴らしい体と自信を得る 1999年9月11日、私は初めてのボディビル・コンテストに出場した。まるで、初めてバーベルを持ち上げたときのような気分だった。トレーニングを始めた日から、毎日がすべて、この特別な日のための準備であったように感じたのだ。コンテストに備えて、私は体重を40ポンド(18.1kg)以上も落とし、体脂肪率は16%から6%へ減らし、マスキュラリティも格段に向上させていた。体が締まってカットがつき、強くなり、自信がついた。だが、何よりも大きな満足感があったのは、自分の目標を達成したことだった。このコンテストでは優勝はしなかったが、私はまるで、優勝したも同然のような気持ちだった。自分の夢を追い、それに向かってあきらめずに努力を続けることができたからだ。 現在、パーソナル・トレーナーとして働いている私は、どのようにして今の体をつくり上げたのかと、よく尋ねられる。私の現在の目標は、そうした質問をする人たちみんなに、これまでの自分の経験で得た知識や喜びを伝えることだ。コンテストに出場するかしないかに関係なく、誰でも自分の体や考え方、生活をよりよい方向へ変えていくことができる。私たちは誰でも、自分の未知の能力に挑み、本当の実力を問うことができるのだ。私はそれにチャレンジした。そして、それは、あなたにもできるのだ! [『マッスル・アンド・フィットネス日本版』2000年10月号にて掲載] |
2012年
4月
18日
水
WWEの帝王ビンス・マクマホン、60歳の驚異の肉体! |
60歳にして圧倒的な体を持つWWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)創設者、ビンス・マクマホン。『Muscle & Fitness』誌フォトセッションでその見事な肉体を公開するとともに、パワフルな生き方を支える体づくりについて語った。 マクマホンは16歳でバージニア州の軍隊学校に入学した。抜群の運動能力から、当時は“フレックス(筋肉の収縮を意味する)”というニックネームをつけられていた。野球、アメリカンフットボール、バスケットボール、レスリングなど、さまざまなスポーツに秀で、体を鍛えていた。当時のトップビルダーのスティーブ・リーブスや、自分が理想とする体を持つプロレスラーに憧れていた。 「私の時代(1950年代)にはまだアーノルド・シュワルツェネッガーなどいなかった。 サーカスで力技を見せるストロングマンやプロレスラー以外、肉体的にすごいと思える人間は、私が育った頃はいなかったんだ」 年齢は単なる数字 フォトセッションが進行するにつれ、一般の人が抱いているであろうマクマホンのイメージはどんどん薄れてくる。目にしているのは、ファーストネームの“ビンス”で呼ばれる、気さくなひとりの男にすぎない。といっても、“世間一般の60歳の男”でないことは確かだ。身長188cm、体重240ポンド(108.9kg)の絞り切られた体を持つ60歳の男がどこにいるだろう?トリプルHと同じペースでトレーニングをこなし、背中のワークアウト日はトリプルHさえ舌を巻くようなトレーニングを行う。ワンアーム・ダンベルロウにいたっては200ポンド(90.7kg)で行うのだ。 「(トリプルHは)エクササイズによっては私のほうがパワーがあることを認めたくないんだ」 そういって笑うマクマホン。さらにレッグプレスでは1200ポンド(544.3kg)を使っているのだ! マクマホンは60歳にはとうてい見えないし、言動にも年齢をまったく感じさせない(2007年の8月には63歳になる)。この前年は週に3〜4回、トリプルHといっしょに鍛えていた。しかもそのトレーニングは“ハードでヘビー”そのものだ! すべてマクマホンが少年時代に憧れたチャンピオンビルダーのワークアウトを思わせるような本格派のトレーニングなのだ。ほとんどがフリーウェイトの種目で、高重量のベンチプレス、ベントオーバーロウ、スクワットなどをメインに行っている。 「マクマホンは“オールドスクール”だよ(ひと昔前の鍛え方をしている、という意味)」 そう話すのは、トレーニングパートナーのスティーブ・ストーンだ。ストーンは元競技ビルダーで、現在はNPC(アメリカのアマチュアボディビルの組織)副会長を務めている。 「マクマホンは決して楽な道を選ばない。自分に対しても誰に対しても、80%の努力ですますことがイヤなんだ。期待に応えられなくても、110%の努力をしていればマクマホンは認める。でも80%しか力を出していなかったら、たとえ十分すごい仕事をしていても、それ以上の努力を要求する。マクマホン本人がそうしているからだ。マクマホンがレスラーに要求することは、すべて彼自身が実践していることなんだ」 そして、マクマホンはこう語っている。 まさに“理想のベビーブーム世代の男性”がここにいる。家族がいる、仕事が忙しい、面倒くさいといった言い訳を並べてトレーニングをしない同年代の男性がどれほどいるだろう。マクマホンの毎日のスケジュールは信じられないくらい過密だ。しかし、そんなことはマクマホンにとって言い訳にはならないのだ。 「(マクマホンは)全力で取り組むから、彼とトレーニングするのは楽しい」というトリプルH。マクマホン自身、他の人も自分のように体を鍛え上げることを望んでいる。 「人類は知的な面では昔より進歩したかもしれないが、たくましくなったとはいえない。本当に残念なことだし、理解に苦しむ。考えてみてほしい。体を鍛えていれば、すべてがよい方向に向かう。食事もおいしくなるし、毎日をもっと楽しめる。呼吸さえ楽になるのだ」 そう嘆くマクマホンだが、ボディビルダー並みにトレーニングに打ち込んでいる彼だからこそいえるセリフだ。 「私はこれまでずっと体づくりに励んできた。だが、自分がボディビルダーだとは思っていない。ボディビルダーはステージに立ってポージングをする。そんなことができる人は最高に尊敬するが、私のすることではない(笑)。私には違った“ステージ”がある。プロレスの世界でも大きいことが求められるが、それは単に体が大きいというだけではない。精神的にも大きいことが求められるのだ」
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© 2012 xfit—体づくり、フィットネスのためのトレーニング・栄養情報より転載
2012年
1月
23日
月
サンディ・スラット Sandy Surratt 4年前、私はある男性との関係がうまくいかず、とてもつらい時期を送っていました。うまくいかない相手といっしょにいることで、自分に対する誇りも自信も失い、まもなくひどいうつ病になったのです。私は救いを求めて、何人もの医師にかかりました。その結果、私はうつ病が直接の原因となった「パニック障害」を起こしていると診断され、薬を処方されました。 それから2年間もの長い間、私は絶望的な生活を送っていました。1日のうちに「パニック発作」といわれる症状が8〜10回も起こったのです。あまりにもひどい状態で、自宅から一歩も出られなくなりました。自分で車を運転して出かけることもできなくなりました。私は人生が終わったように感じ、死んでしまいたいとさえ思いました。でも、私は幼い3人の娘をもつシングル・マザーであり、子どもたちのために頑張らなければならないことはわかっていました。子どものためにも、自分のためにも、何とか生活を立て直さなければならないという自覚はあったのです。 精神的に最悪の状態になっていたとき、私は決心しました。悩んでばかりいずに、何かほかのことに一生けんめいになろうと決心したのです。それしか、自分が救われる方法はないと思ったのです。家からなかなか出ることができなかったので、エアロビクスのビデオテープを買い、週に2回、テレビの前でエクササイズを始めました。そして次に、私は大きな決断をしました。地元のフィットネス・センターに入会することにしたのです。当時の私にとって、これはとても大変なことでしたが、自分に鞭打って出かけました。そしてそれからまもなく、驚くべき変化が生じました。自分に自信をもてるようになってきたのです。 私が通っていたクラークス・トータル・フィットネス・センターのオーナーのフレディ・クラークは、苦しんでいる私に気づき、すぐに私に援助の手を差し伸べてくれました。彼は無料で私のパーソナル・トレーニングにあたってくれただけでなく、私のかけがえのない友人にもなりました。こうして精神的にも、肉体的にも強くなってくるにしたがって、私はそれまでの苦しい生活から立ち直り始めました。内面的にも外面的にも強くなったことで、悲惨な状態で続いていた男性との交際も断ち切る決心ができました。この決心をしたことが何よりの収穫でした。一歩一歩、小さな進歩の積み重ねが大きなステップにつながり、私は自分の人生、子どもたちの人生を変えていくことができたのです。 人生のハイライト フレディはそれまでボディビルを13年間ほど続けていて、全米レベルのコンテストにも出場していました。ある土曜日、私は彼といっしょにコンテストを観戦し、これですっかりボディビルの魅力にとりつかれてしまいました。当時、私の体重は43kgくらいでしたが、「私にもできるかしら?」とフレディに尋ねると、彼は「君なら、絶対にできる」と励ましてくれました。 こうして10カ月くらい経った頃、フレディは私にコンテストへの初出場を勧め、その準備のための指導を始めてくれました。ノースカロライナ州ボディビル・チャンピオンシップに出場することにしたのです。フレディの協力を得て、エアロビック・トレーニングとウエイト・トレーニングを適切に行い、水をたくさん飲み、炭水化物とたんぱく質を豊富に含むバランスのとれた食事を摂りました。そして、この初出場のコンテストで、2位に入ることができたのです。この経験は私の人生のハイライトの一つだったといえます。 ボディビルで得た絆 わずか2年前に入会する決意をした地元のジムで、私は現在、パーソナル・トレーナーとして働いています。筋肉を引き締めるトレーニングとエアロビクスのクラスを担当しているのです。「私もあなたのような体になりたい」とよくいわれるようになりました。でも、本気で取り組めば、どんな目標でも達成できます。私はこのことを、みんなにわかってほしいのです。フレディから以前いわれたことを、今では私がみんなにいっています。 「ハードにトレーニングをして、正しい食事をして、しっかり自己管理をすること」 今の私は、幸せな気持ちに満ちあふれた毎日を送っています。パニック発作に襲われたり、そのための薬や抗うつ薬を使うといった日々が終わって2年間が経ちました。体脂肪は抑えたままで、体重は約14kg増えました。両親、子どもたち、そしてフレディの協力がなかったら、こうした変化は成し遂げられなかったことです。昨年の4月、私とフレディは再び“チーム”を組みました。結婚したのです。ボディビルによって、私たちは結ばれました。ボディビルは私たち2人の人生の重要な一部であり、私たちはこれからもボディビルをとおして成長を続け、共通の目標に向かって打ちこみ、目標の達成をめざして励んでいくつもりです。 |
© 2012 xfit—体づくり、フィットネスのためのトレーニング・栄養情報より
2011年
10月
13日
木
メンタルパワー
精神力・心理面の卓越性
データ
●アーノルドと出会った人が必ず認め、驚かされるのが、超人的ともいえるレベルの集中力、意欲と行動力、自信、計画性を備え、目標に向かって進むタイプの人間だということだ。アーノルドほど成功への強い情熱を持つ人間はいないかもしれない。アーノルド自身も、自分に備わったこの特質が、ボディビルダーとして成功を手にする大きな要因になったといい、彼の著作『Arnold: The
Education of a Bodybuilder』のなかでこう述べている。
「私は自分に問いかけた。
『アーノルド、いったいどうしてなんだ? たった5年トレーニングを積んだだけで、どうしてMr.ユニバースのタイトルをとることができたんだ?』
たくさんの人から同じような質問を受けた。そうして私は、自分とほかのボディビルダーとの違いを考えるようになった。いちばん大きな違いといえるのは、ほとんどのボディビルダーは『自分が勝つ』とは思っていないということだった。……(中略)彼らは将来の自分の理想像を漠然と思い描いてはいるが、自分が絶対にそうなるとは確信を持てずにいるのだ。そして、そうした考えが災いすることになる。だが、私は違った。私はいつもこう考えていた。『目標もなくトレーニングするなんて無駄だ』と」
●アーノルドのトレーニング仲間のなかには、将来成功するという考えを“夢物語”程度にしか思っていないボディビルダーも多かった。だが彼らと違って、アーノルドはそのときどきの目標をしっかりと立て、集中して取り組んでいた。どの瞬間も未来に向かって進む礎石であると、アーノルドは強く考えていたのだ。
そしてそのために当時のアーノルドが最も重要と考えていたのは、「絶えず筋肉に意識を集中する」ということだった。たとえトレーニングしていないときでも、アーノルドはしっかりと筋肉に意識を向けていた。
「私はいつも、自分の体をしっかりと意識していた。筋肉の働きを絶えず感じ取っていたし、ワークアウトを始める前には必ず、これから行うトレーニングの内容をひととおり頭のなかに思い描いていた。この作業は、トレーニングがしやすくなるというだけでなく、集中力を高めるための瞑想のようなものだった。トレーニング中は、すべての意識を筋肉だけに向けていた。まるで筋肉に脳を移植したかのように、筋肉の働きだけを感じ取っていた。そして筋肉が働いていると考えるだけで、筋肉に血液を送り込めるようになった」
●ジムに一歩足を踏み入れると、アーノルドはトレーニングのことしか考えなかったが、そうではないボディビルダーも多かった。
「私が行っているのと同じエクササイズを行いさえすれば、私のような筋肉を手に入れられると考えているボディビルダーもいた。だが彼らは、私と同じエクササイズを行っても消耗するだけで、ほとんど成果をあげられない。……(中略)その理由がなぜなのか、私にはわかっていた。違いは、集中してトレーニングを行っているかどうかということなのだ。トレーニング中にはそれ以外の考えはひとつも、頭の中に入れてはならないのだ」
●コンテスト当日のアーノルドの集中力とメンタルパワーのすさまじさは、まさに“伝説”のように語り伝えられている。
そのひとつが、アーノルドはライバルたちを心理面で圧倒する能力を備えていたという話だ。そして、その例としてたびたび引きあいに出されるのが、映画『鋼鉄の男』のなかに登場するライバルたちとの駆け引きだ。こうした場面の多くで、アーノルドは自分がコンテストで勝つと、単に「確信する」といったレベルでなく、勝つことが「わかっていた」のだ。そう考える能力を備えていたからこそ、アーノルドは実際に勝利を手にできたのだ。
●アーノルドが“ポジティブシンキング”のパワーを活用して目標を達成した例は語り尽くせないほどある。ボディビルだけでなく、それ以外の分野でも、そうした例は数えきれないほどあるのだ。アーノルドはまさにこの力を使って、その後の数多くの成功を手に入れ、夢を現実のものへと変えていったといえるだろう。
分析
●アーノルドは間違いなく「勝者」だ。「敗北」という言葉はアーノルドの選択肢のなかにはこれまで一度もなかったし、これからもそうだろう。アーノルドはまさに、自己啓発のエキスパートたちがいう“人生の勝者”の見本のような人間だ。実際、この分野の専門家のひとりが次のように述べているが、この言葉はアーノルドの口から発せられたと考えても何の不思議もない。
「人生は可能性に満ちている。もっと大きな考えを持ち、限界を超え、到底不可能と思えることを可能にする余地が人生にはある」
●どんな分野であれ、成功している人には共通点がある。それは、人生の成功者は必ず、「勝者の考え方をする」ということだ。恐れではなく、自分の意志や意欲にしたがって行動しよう。アーノルドは常にそうしてきた。そしてその結果、計り知れないほどに大きな成果を手にしてきたのだ。
アーノルドから何を学ぶか |
常により高いレベルへと前進を続けてきたアーノルドの哲学を、彼自身の言葉を借りてまとめてみよう。 2011 xfit—体づくり、フィットネスのためのトレーニング・栄養情報より転載 |
2011年
6月
26日
日
キース・ファリス
9年前に初めて出会った頃の妻ジョイは(当時彼女は19歳だったが)、深刻な喘息や「僧帽弁逸脱症」という心臓疾患など、健康上のさまざまな問題を抱えていた。出会って間もなく、初めていっしょにクリスマスを迎えたが、このときに撮った写真が、彼女を健康な生活に目覚めさせ、その後の人生を変えたといえる。 最終的には妻は30ポンド(13.6kg)の減量に成功した。彼女自身、やせすぎではないかといっていた時期もあったくらいだ。今となっては、この理由ははっきりしている。ウエイト・トレーニングを行っていなかったのだ。目標としていた100ポンド(45.4kg)の体重に到達しようとして、ジョイは脂肪だけでなく、筋肉も落としてしまっていた。当時子どもをもうけようとしていた我々に、医師さえも、あと数kgは体重を増やしたほうがよいといった。そして、その言葉どおり体重を5ポンド(2.3kg)増やすと、ジョイはすぐに妊娠した。 1992年4月に帝王切開で娘を産んでから、ジョイは運動を再開し、数カ月で妊娠前のシェイプを取り戻した。体重は110ポンド(49.9kg)前後だった。この1年後、彼女は再び妊娠した。今度はあまり食事に気を使わなかったので、体重が42ポンド(19kg)増えてしまった。 1994年9月に2番目の子ども(男の子)が生まれたが、このあとの減量は以前よりも大変だった。だが彼女はトレーニングを定期的に続け、無茶な減量には走らなかった。この頃になると、彼女は体重管理を生活の一部と考えていて、解決を急ぐことはなかった。こうして体重は確実に減っていったが、今から約1年前、118ポンド(53.5kg)になったところで壁につき当たり、それからは減量が進まないようだった。 ウエイト・トレーニングとの出会い ちょうど同じ頃、私もついに、体を鍛えるなら今すぐ始めるしかないという思いを固めていた。それまでは体づくりを始められない言い訳ばかりをしていた。スポーツ万能の細身の体、というと聞こえがいいが、実際はガリガリの体だった。身長は191cmもあるのに、なんと体重は148ポンド(67.1kg)しかなく、1982年に高校を卒業したときからまったく変わっていなかった。代謝が非常に活発で、何をしようと、何を食べようと、体重はまったく増えなかったのだ。 私は自宅でウエイト・トレーニングを始めようと決心した。私のやる気を高めようと、ジョイは『マッスル&フィットネス』誌を買ってきてくれた。彼女はそれまで女性のフィットネス雑誌は読んでいたが、『マッスル&フィットネス』誌を手にするのは初めてだったという。男性が読む雑誌だと思い、大きな体をした男たちのワークアウト・ルーティンや写真を見て、私が発奮すると考えたのだ。 ウエイト・トレーニングの効果の素晴らしさを知ったのはまもなくだった。私はこの「男性のための雑誌」に女子フィットネス選手の記事が掲載されているのを見て、ジョイにもウエイト・トレーニングを勧めてみた。ウエイト・トレーニングと並行して栄養摂取を改善したら、減量の壁を突破できるのではないかと考えたのだ。だが、おそらく女性の多くがそうであるように、ジョイも最初はウエイト・トレーニングに気が進まなかったようだ。大きな筋肉がついて男性のような体になるのではないかと誤解したのだ。そこで私は、フィットネス競技選手たちの記事や写真を見るように説き続けた。テレビで放映されたフィットネス競技の番組もいっしょに見た。そしてまもなく、彼女はウエイト・トレーニングの魅力に完全に“はまってしまう”ことになったのだ。 ジョイはダンベルを購入し、自宅でコリー・エバーソンのビデオを見ながらトレーニングを始めた。それから数カ月の間に体が大きく変化したことで、ウエイト・トレーニングの効果を彼女は完全に信じるようになった。私たちの生活も変わっていった。今では彼女も、私と同じくらい熱心に『マッスル&フィットネス』誌を読んでいる。実際、2冊購読したほうがよいと思っているくらいだ。2人とも、いつも同じときに読みたくなるからだ。 フィットネス家族 半年前、ついに私たちはフィットネス・クラブに入会した。2人いっしょにウエイト・トレーニングができるように、託児所つきの施設を選んだ。栄養摂取を管理し、ウエイト・トレーニングを続けるバランスのとれた生活を送ろうと、2人とも真剣だった。今でもジョイは週4回、朝4時半に起きてエクササイズを行っている。自宅のトレッドミルで8kmのウォーキングかランニングに、ステップ・エアロビクスを組み合せて交互に行っている。 ウエイト・トレーニングは2人いっしょに週4日、毎回1時間程度行っている。月曜日は胸と背中、水曜日は肩と僧帽筋、木曜日は上腕二頭筋と上腕三頭筋、土曜日は脚を鍛えている。腹筋のトレーニングは週に2〜3日行っている。2人とも『マッスル&フィットネス』誌を参考にして、具体的な目標に合わせた栄養摂取プログラムをつくっている。私のプログラムは「高カロリー摂取・筋量増加プラン」で、ジョイは「体脂肪減少・筋肉増加プラン」だ。 新しいプログラムに切り換えてから2〜3カ月間で、ジョイも私も大きな進歩をした。8年前結婚したときよりも彼女はきれいになった。結婚当時と同じ体重(約109ポンド=49.4kg)だが、体脂肪が筋肉に変わったことが何よりも大きかった。彼女は以前よりもエネルギーにあふれ、自信がつき、はるかに健康になった。フィットネス・クラブの人たちからもいつもほめられている。ジョイの存在がジムに通う励みになっているという人まで現れた。 昨年私は、30ポンド(13.6kg)の筋肉をつけることができた。現在の体重は181 ポンド(82.1kg)、体脂肪率は9%を切っている。これまでで最高の体、最高の気分で毎日を過ごしている。 家族や友人のなかにはジョイと私の成果に感動して、運動と栄養摂取のプログラムをつくってほしいと頼んできた人もいる。ジョイはこれに大喜びで応じ、今ではフィットネス・トレーナーになるための勉強をしている。 夫婦2人ともが楽しめるものをいっしょに行えることは大きな喜びだ。素晴らしい結婚生活がさらに充実したものになった。そして、自分たちのライフスタイルが子どもたちにもよい影響を与えていることもうれしい。健康的な食生活、エクササイズの手本にふだんから触れていることによって、より健康的で活動的な日々を子どもたちも送っている。もうすでに、「パパとママのように」トレーニングをする真似までするようになった。こうしたことが将来、彼らが自分に対する自信、よい自己イメージをつくり上げる基礎になるはずだ。ジョイと私は、ウエイト・トレーニングは単に体型をよくするだけでなく、健康や体力、精神面も向上させるものだと信じている。このような親をもつ子どもは、健康で充実した生活を送るという点で、人よりもすでに一歩先んじたスタートを切っているのだ。
ウエイト・トレーニングは体型をよくするだけでなく、 |